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壁抜け男 異色作家短編集17

8月の話で旧聞になるが、海外ではワクチンパスポートの偽造や販売事件が次々と摘発されていたのだった。こうした馬鹿馬鹿しくも切実なニュースを見聞きするにつけ、何となく思い出すのがマルセル・エイメの短編【カード】である。エイメは奇想天外な作風で知られるフランスの作家で、前に筒井康隆の【トンネル現象】の項でもそのファンタジー性をちょっと述べたし、何かと印象深い(短編ながらいつまでも残る)鬼才のひとり。石丸幹二の主演でミュージカル化された【壁抜け男】は後世の作家に様々の影響を及ぼしていると思う。

して【カード】もまったく奇妙奇天烈な話で、何しろカードというのは政府によって発行される「生きている時間を制限される」『生存上限カード』の事であり、6枚綴りのそれは生存チケットと見なされ、終いには人々がそれを奪い合ったり売り買いしたりして社会は大混乱に陥る。読んだ当時はとても感嘆したものです。実際こんな世界が未来に待っていない事を願いながらですが。ところが今、ワクチン接種の有無に関わらず人々が偽物のワクチンパスポートに群がるというなんとも滑稽な事実に、もともと人間の寿命には限りがある事を忘れがちな私たちはこの物語の中の人々の愚かさを笑うでは片付けられない一抹のアイロニーを感じずにいられない、そんな気分で再読してみた。早川書房から刊行された異色作家短編集第17巻に収められていて、翻訳は中村真一郎という昭和の仏文学者が手がけている。この人の評論が高校国語の小論文のテキストで何だか難しかった記憶があったのだが、エイメの翻訳は読みやすいので心配いりません。スリラーやミステリに於いて読者を引き込むパワーとスピードでは小笠原豊樹が一番と思うけれども、フランスのどこかのんびりとしつつも風刺の色味が強いエイメのシュール感覚に中村氏の格調高い美文が寄り添っているのが心地良く、今でも名訳と謳われるのも頷けます。

生存カードの物語は拍子抜けするくらい突然に呆気なく終わる。新型コロナウィルスのワクチン接種は徐々に人々の中へ浸透し、或る秋の日に札幌では新規感染者が5人だったのだとか。報道の数字に一喜一憂すべきではないが、呆気ない幕切れでも何でも良いので世界中を翻弄してきた新型ウィルスを追い払う日が来ることを切に願っている。